共通教育科目「基礎教養1」の「世界の思想」

2007年度1学期水曜4時限「認識するとはどういうことか?」

            第二回講義(2007.04.18)

              §2究極的に根拠付けられた知は存在するのか?

 

1、ミュンヒハウゼンのトリレンマ

     H・アルバート『批判的理性論考』御茶の水書房(原書1968)

(1961年にテュービンゲンで開かれた、ドイツ社会学会でのアドルノとポパーの対立に始まる「実証主義論争」に始まり、アルバートとハーバマスに受け継がれて行く。この論争をきっかけとして、批判的合理主義の立場を鮮明にすべく書かれたのが、この書物である。この論争は、つぎには、アルバートとアーペルの論争に引き継がれて行く。参照:同訳「後書き」)

 

ある命題の根拠づけを行おうとすると次の3つのどれかになる。

 (1)無限遡及

 

□←□←□←□←□←□←□←□←□←□←□←□←・・・・

 

 (2)演繹における循環論法

 

□←□←□←□←□←□←□←□←□

        ↓       ↑

           □→□→□→□→□

   

(3)特定の一時点での作業中断

 

□←□←□←□←□←□←□←□←□

 

 ところで、このいずれの場合にも「確実な基礎には至り得ない」。

ゆえに、合理的な公理設定は不可能である。

 

注1:ミュンヒハウゼンのトリレンマの修正?

 根拠の探求には、もう一つの角がある。

    (4)根拠の遡及における前提数の無限大化

 ある命題が他の命題の基づくとすれば、その前提は一つである(直接推理)か、二つである(間接推理)。ゆえに、ある命題を基礎付ける命題を遡行すると、3つではなく、遡るたびに前提の数が増えて行き、無限大になる場合が考えられる。たとえば、規約主義のパラドックスがその典型的な例である。(もっとも、前提の数が増大しても、その各々は、上の三つのどれかになるだろう。)

 

 

注2:ディレンマ、トリレンマ、の説明

 

dilemma(ディレンマ、両刀論法):

 

(1)単純構成的ディレンマ

  (pならr)&(qならr)

     pかq       

    ∴ r

 

(2)複合構成的ディレンマ

  (pならr)&(qならs)

     pかq       

    ∴ rかs

 

(3)単純破壊的ディレンマ

  (pならq)&(pならr)

    ¬qか¬r      

    ∴ ¬p

 

(4)複合破壊的ディレンマ

(pならr)&(qならs)

     ¬rか¬s     

   ∴ ¬pか¬q

 

 

trilennma(トリレンマ、三刀論法)

 

(1)単純構成的トリレンマ

  (pならs)&(qならs)&(rならs)

     pかqかr            

    ∴ s

 

ミュンヒハウゼンのトリレンマ

 p「知の根拠付けが無限遡行する」ならば、s「知の最終的根拠づけは不可能」

 q「知の根拠付けが循環する」ならば、s「知の最終的根拠付けは不可能」

 r「知の根拠付けが断言に基づく」ならば、s「知の最終的根拠付けは不可能」

        pかqかr                        

       ∴ s

 

注3:古代懐疑主義

 

(参考文献:

1、ジュリア・アナス、ジョナサン・バーンズ『懐疑主義の方式』岩波書店

2、フィリップ・デ・レイシー「懐疑主義(古代における)」

  リチャード・H・ポプキン「懐疑主義(近代における)」

                   (『西洋思想大事典』平凡社)

3、ポプキン『懐疑』紀ノ国屋書店)

<懐疑の2方式>

 「およそ認識によって把握されるところのものすべては、(1)直接それ自身によって把握されるのであるか、それとも、(2)他のものによって間接的に把握されるのであるかの、どちらかであるように思われる以上、彼らは、何かが(1)それ自身によっても(2)他のものによっても把握されないことを論じることにより、あらゆるものについての行き詰まりを導入すると考えるのである。

 (1)まず、何ものも直接自己自身によって把握されないということは、感覚の対象となるあらゆるものと思惟の対象となるあらゆるものについて自然哲学者たちのあいだに行われてきたところの、意見の不一致を思えば明白である。

 (2)さらに彼らは次の理由によって、何かが間接的に他のものを根拠として把握されるということも認めない。すなわちもし一方において、あるものがそれによって把握されるところの、その根拠となるものが、つねにまた別のものを根拠として把握されなければならないとすれば、循環論の方式、もしくは無限背進の方式の中へ追い込むことになる。他方しかし、もしあるものを把握するための根拠となるそのものが、直接自己自身によって把握されるというふうに考えようとするならば、なにものも既述の理由によって直接自己自身によって把握されることはないという原則が、これをしりぞける。」(セクストス『概要』第一巻178ー9節)

 

古代懐疑主義者がここから導く結論は、エポケー(判断中止)であり、生き方としては、ある主義に執着しないという態度である。

 

注4:3種類の「なぜ」質問

 「なぜ」質問は、次の三種類に分かれる。

(1)出来事の原因を問う「なぜ」

(2)行為の理由を問う「なぜ」

(3)主張の根拠を問う「なぜ」

 

ミュンヒハウゼンのトリレンマと関係するのは、(3)である。

(1)と(2)の「なぜ」も、もし「なぜ、なぜ」と問い続けると、同様のトリレンマになる。

しかし、それらが引き起こす問題は、(3)の知の基礎付け問題とは別種のものである。

 

(1)に関していうと、知の基礎付けに関しては深刻な問題をひきおこさない。なぜなら、もしある出来事の原因がわからないとしても、その出来事が起こったことが疑わしくなる事はないからである。しかし、ここからは、別の問題が生じる。つまり、我々が出来事の原因を問い続けるとき、

(a)もし無限に遡行するのだとすると、我々の探求には終わりがない。

(b)もし循環すると、これは因果の系列だから、時間が循環していることになる。

  (そんなことは、可能だろうか。)

(c)もしどこかで停止すると、原因のない出来事が存在することになる。

  (自由な意志決定が存在するなら、それはそのような出来事の一つである。)

 

 (2)に関していうと、この系列がある種のトリレンマになっても、知の基礎付けに関しては深刻な問題を引き起こさない。なぜなら、「なぜ・・・したいのか」という問いは、意図の存在を前提しており、この問いに答えられなくても、意図の存在が脅かされることはないからである。

 (a)我々の行為の理由を無限に遡るとすることは、心理学的にありえない。

(b)もし行為の理由が循環しているとすると、その循環を構成する意図の中のある一つの意図からは、二つの意図が生まれることになる。(それは、どのようにして可能になるのだろうか。)

(c)もしどこかで停止すると、より上位の意図を持たない意図が存在することになる。

行為の理由は、ある意図(ある目的)であろう。さらにその意図(その目的)の理由は、別のより上位の意図(目的)であろう。もし、より上位の意図(目的)が解からないとしても、そのことは、意図(目的)を無効(無意味)なものにはしないからである。(この理由について関心のある方は、拙論「問答の意味論と基礎付け問題」(『大阪大学文学部紀要』第37p.153-190)を参照してください。)

 

 

 

2、ミュンヒハウゼンのトリレンマからの帰結 

「基礎づけ主義」が批判されるとき、帰結するのは次の3つの立場であろう。

 

(1) いかなる主張も行わない「懐疑主義」。

(2) 何かを主張するが、それが誤謬である可能性を認める「可謬主義」(falibilism)

 

例えば、ポパーやアルバートの「批判的合理主義」は、「基礎付け主義」をとらず、「可謬主義」をとる。可謬主義は、確実に真であることが証明された命題を学問の出発点にするのではなく、とりあえず真らしい命題を出発点にし、その命題をテストにかけ、テストによって反証・反ぱくされない限りで、その命題を採用し続けようとする立場であり、すべての命題につねに誤謬の可能性を認める立場である。

 

(3) それでも、「基礎づけ主義」の可能性をなおも追及すること

 

(2)の立場は、どのようにしてある主張を行うのか、どのようにしてある主張を採用するのかによって、つぎのように区別されるだろう。

   (a) 決断主義

   (b) 規約主義  約束主義(あるとき、ある人々による、自覚的な約束)

            慣習主義(いつ、誰によるのかわからない、慣習)

 

 

注1:ミュンヒハウゼンのトリレンマの議論への批判

クラフトは、ミュンヒハウゼンのトリレンマを次のように批判している。

<ミュンヒハウゼンのトリレンマの議論は、論理学を前提している。つまり、単純構成的トリレンマの推論が妥当であることを前提している。

  p⊃s&q⊃s&r⊃s

  pvqvr    

      ∴ s

しかし、他方で、「単純構成的トリレンマが妥当な推論である」という命題については、その根拠を問うならば、それはミュンヒハウゼンのトリレンマに陥り、根拠付けを失う。ゆえに、ミュンヒハウゼンのトリレンマの議論は、自己論駁的である。>

あるいは、別の言い方をすると次のようになる。

<ミュンヒハウゼンのトリレンマの論証は、つぎのようなものである。<推論T(単純構成的トリレンマ)が妥当であり、前提D(p⊃s&q⊃s&r⊃s と pvqvr)が真であるならば、命題S「いかなる知も窮極的な根拠付けを持たない」は真である。> この結論は、「推論Tが妥当である」を前提している。この前提は、命題sと矛盾する。>

この批判に対しては、次のように反論することが出来る。ある前提から矛盾が帰結するならば、そこから論理的に帰結することは、前提の少なくとも一つが間違っているということであって、結論がまちがっているということではない。したがって、この批判は、向こうである。もっとも、この反論もまた論理法則を前提している。

より一般的に言うと、論理法則を前提すると命題sが帰結することになり、論理法則を前提しないと、そのときには、何でも帰結するので、命題sが帰結する。したがって、いずれにしても、sが帰結する。

もっとも、この反論もまた論理法則を前提している。